よく歴史は暗記が多いと言われています。まぁ、その通りなんですが丸暗記したものって記憶に残りづらいんですよね。暗記してもすぐに忘れてしまって、三日前にやったことすら忘れてしまっていてガッカリした経験がある人は多いと思います。
昔から「ラップや音楽に合わせて語呂合わせを覚える」みたいな方法が多いんですけれども、僕にはそれが合いませんでした。頑張って覚えても、長く残っているのはそのほんの一握りの記憶です。ではどうやって記憶を保てばよいのでしょうか。今回はそのオススメの勉強法を紹介します。
結論
- 全体の流れをつかむ。
- 時代ごとに発生する特徴的な出来事を大まかに把握する。
- なぜその出来事が発生したか、その当時の人々の思いを想像する。
そもそも歴史ってなぜ勉強した方が良いの?
何事にも必要性を理解するところから始めましょう。僕が中学生の頃は社会は嫌いでしたし、なんなら勉強する意味がわかりませんでした。だけど今、職業柄外国人と接することが多く、オススメの観光スポットを紹介することがあります。日本の文化の面白さ、どこに行けば体験できるか。その歴史的背景についてなど、歴史や文化に関する質問をされることが多いです。逆に海外に行ったときも、私は知らない文化やその背景について質問することが多いです。
海外旅行に行ったときや、特に将来外国人と関わる際には歴史を勉強しておいた方が良かったなと思う場面に多く遭遇しますので、歴史は勉強していて損はありません。
歴史は物語として覚えるべし
例えば歴史の教科書の年表を見てみましょう。最初のページに載っているはずです。全部暗記できてますか?そして詳細を説明できますか?
説明できる人は歴史が得意な人でしょう。歴史の教科書では、旧石器時代から近代に至るまで様々な出来事が簡潔に書かれています。ただ、教科書や参考書は簡潔に書かれすぎていて物語が頭に入ってこないのです。だから覚える時は一つ一つの事象を単独で覚えるのではなく、物語の流れの一部として、なぜその事象が発生したか、その事象はどのような影響を与えているか、ちゃんと理由と紐づけて覚えると忘れづらいです。特に人は感情と一緒に記憶すると忘れづらいと言われています。悲しかった時の事、うれしかった時の事はみんなよく覚えているでしょう。
例えば、年代と事象で覚えた場合と物語で覚えた場合を比較しましょう。
年代と事象で覚えた場合:「大塩平八郎の乱は1837年に発生した」
物語を覚えた場合:「1833年に天保の飢饉が発生した結果、米の需要が高まりました。そこで米商人たちや一部の米農家の人たちは在庫を離さずに、米の価格を高騰させるようになります。これは株仲間とよばれるシステムが影響しており、米の生産と販売を独占して新興業者を排除し、価格の下落を防ぐためのものでした。米商人や米農家の人たちはもちろん非難されましたが、儲けに目が眩んだ他自分も明日をも知れぬ身なので簡単に在庫を手放すわけもありません。大塩平八郎は町奉行を勤め上げて定年退職した身でした。正義感が強く、元役人という立場を使って幕府に何度も抗議しましたが幕府は聞く耳を持たず、あろうことか大阪奉行所は江戸幕府にいい顔をし続けようと年貢を納め続けていました。その傍ら、町にはそこら中に餓死した人が横たわっています。大塩平八郎は少しでも足しにでもなればと、私財を投げうって町の人たちに食べ物を寄付して回ります。でも焼け石に水で一向に状況は改善しませんでした。飢饉が発生してから4年もの間頑張り続けましたが、一向に改善されない幕府の対応にしびれを切らし、ついに大塩平八郎の乱が発生します。目的地はかつて勤め上げた職場、大坂町奉行です。当日の朝、大塩平八郎は覚悟をきめるため、自ら自宅に大砲を一発ぶちこんで帰る場所を断ちます。近隣の米商人の倉庫を焼き払い、順調に大坂町奉行がある大阪城まで進むかと思いきや、なんと大塩一派には幕府側のスパイが紛れ込んでいたのです。そのため事前に計画が漏れ、大阪城への経路にある橋が封鎖されるなど幕府側の工作にあい、結果的に大塩平八郎の乱は計画通りにいかず、わずか半日で大塩一派は壊滅してしまいます。わずか数時間で鎮圧された乱ですが、元役人が起こした乱ということも珍しく、瞬く間に日本全土に知れ渡りました。新潟にもすぐに情報が伝わり、その結果生田万の乱が発生しました。次々に起こる騒動で、幕府は対応を考えることが求められました。その結果、天保の改革として株仲間を解散し、既得権益による価格のつり上げをやめさせるという改革につながりました。」
どちらが記憶に残りますか?
物語で覚えた場合、大塩平八郎の乱の前後に発生した天保の飢饉、生田万の乱、天保の改革に株仲間の解散まで記憶に残りやすくなります。
漫画や小説などの物語の時系列は一度読んだだけでも長く覚えています。つまり、物語は長期的な記憶に残りやすいです。従って、歴史も物語としてとらえることが大事です。
歴史は時代ごとの全体像をつかみ、疑問をもつべし
歴史はたくさんの人の思いや覚悟が連なった壮大な物語です。
例えば大塩平八郎の乱が発生した江戸時代を例に物語の全体像をつかみましょう。まずは数行程度で説明してみます。
江戸時代の全体像
江戸時代は1600年の関ケ原の合戦から3年後に徳川家康が江戸幕府を開いたところから、15代慶喜まで265年間続いた時代です。特徴は、鎖国により日本独自の文化が育成されたことです。しかし列強諸国の影響を無視できず、坂本龍馬ら革新派に江戸幕府は倒幕されてしまいました。
では次に疑問を持ちましょう。例えば、長く続いた江戸幕府ですが、始めの頃の幕府はどんな様子だったのでしょうか。そして特徴として挙げられる鎖国時代ですが、なぜ鎖国する必要があったのでしょうか。
疑問を解消しましょう。
徳川幕府初期の様子
まず、徳川家康は1603年に征夷大将軍になってわずか2年で息子の秀忠に将軍の座を渡します(1605年)。このとき家康は64歳ですからね。もう天下をとることで疲れたのでしょう。一方秀忠は26歳です。従ってお父さんの後ろ盾もまだ必要だったのではないでしょうか。
天下分け目の合戦の勝敗がついたといえ、この頃はまだ敵方の力は無視できないほど大きいものでした。ここで言う敵方とは豊臣家を指します。かつて家康は豊臣家の家臣でしたので、かつての主君が敵ということです。
従って、偉い人の座に豊臣家以外の人を据え置くなど、豊臣家の力を削ぎました。豊臣家側としてもおもしろくないでしょう。かつての家来が自分より偉くなって、色々と邪魔をしてくるんですから。
こうした小さな衝突が何度も重なって、ついに戦へと発展します。それが大阪の陣(1614-1615年)です。冬、そして夏と2年にわたった戦いは徳川の勝利で終わり、ついに豊臣家は滅びてしまいます。
そして家康は1616年に没し、いよいよ徳川二代目将軍秀忠の時代が到来します。
鎖国までの様子
徳川家と豊臣家のきな臭いいざこざの横で、外国人やキリシタン達が色々と問題を起こしていました。
もともと家康は開国派だったのはご存じでしょうか。オープンにいろいろ貿易しようぜっていう考え方でした。例えば1610年にはスペイン国王へ親書を送りますが、やってきたスペイン王国の大使が色々と問題を起こしてスペインと決裂する切っ掛けになります(1611年)。理由は色々あったようですが、簡単に言えばやってきた大使はスペイン領土拡大のための拙攻であることがわかったからです。
さらにキリシタン同士の収賄事件が発覚(岡本大八事件:1612年)するなど、キリシタンに対する疑心が深まってしまいます。まだこの時は豊臣家との決着もついていませんでしたので、不安要素は極力除こうということで、鎖国方針に舵を切ります(徳川直轄地に対する禁教令:1612年)。さらに禁教令は翌年全国に拡大されます(1613年)。1616年に家康が没してから対外政策はいよいよ厳しくなっていきます。そしてついには二港制限令(1616年)という江戸時代最初の鎖国令が出されます。これは中国船以外の外国船は長崎港か平戸港(長崎県)に限定するというものです。スペイン船が多くの宣教師を密航させていることがわかり、1624年にスペイン船が全面禁止になるなど、外国の商船が次々と出禁になっていきます。これが鎖国の始まりです。そんな中、諸説ありますがキリシタンに対する迫害に起因して発生したのが島原の乱(1637年)でした。
要はキリシタンや、外国人がいろいろやらかしてしまったものが積み重なって、だんだんと対外政策がきつくなった結果が鎖国という結論だったということです。
このように、
まとめ
全体を把握し、疑問の詳細を紐解いて詳しい物語を理解するという流れを繰り返すことで、当時の人たちの考えや感情とともに理解でき、一度知れば忘れにくくなります。
日本人として、特に日本史は知っておいた方が良いです。日本史、世界史問わず歴史を覚えるためには物語としてとらえましょう。歴史は数多の人たちによる、涙ぐましい努力と覚悟、決断を綴った物語です。当時の人々の感情を汲むことで、感情と結びついて忘れにくくなります。従って、歴史を覚える際は特に当時の文化的背景を理解しつつ、当時の人に寄り添う気持ちで物語を紐解いていきましょう。
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